昭和48年12月09日 朝の御理解
御神訓 一、
「神は声もなし、形も見えず、疑えば限りなし、恐るべし。疑いを去れよ。」
どういう信心をさして頂いたら、神様のいわば絶対信というか、というものが生まれてくる。疑うにも疑われないという程の神様を頂かなければ。私は今朝、御神前で御祈念中に頂きましたことが、何と言うのでしょうかあれは、水の中にこう浮いている水草のね、あの佐賀辺りに菱というのがありましう。丁度菱の、あれだって水草の一種でしょうけどそう言う様なもの。
あのそれが、水の中に白い根をずうっとこう、水の中に根を下ろした情景を頂いたんです。どう言う事だろうかと思いましたら、お互いの信心はは水の中に根を下ろすと言う様なもの信心では、成程菱の様なものは、実もなりますし花も咲きます水草は。けれども水が涸れたら一緒に涸れなければならないぞと言う事です。それでどこまでも大地に根を下ろした様な、信心でなからなければいけないぞと言う事です。
お水があればよいいつも。けれどもそれではね、水が涸れたらもう水が涸れると同時に涸れなければいけん。私が昨日も申しましたように、私共の知っておる限りの例えば教会なんかの、いわゆる先代の時は御ひれいが輝いた。それこそ飛ぶ鳥を落とすような御ひれいに輝いた。ところがその先生が例えば亡くなって二代目になり、三代目になって来たら、いうならば、おかげがずっと減ってしまった水が減ってしまった。
減ってしまったら、中に少しばかり溜まっとるところへあるくらいな信者しか残っていないと言う事実が、あることでございまず。先生のお徳でお恵みの水がいっぱい、例えばその堤なら堤に、あった時には水草も、ほら根も下ろすし、実も稔るけど、又花も可愛い花が咲いた。所がその水が涸れてしまったら、一緒に殆どが涸れて、たとえば底の所に少しばっかり残っている水の上に、水草が咲いて要る様な、いうなら哀れな姿になってしまう。いうなら段々教会が閑古鳥が鳴くように、淋しうなって行く。
先代が居られる時には、ああいう、おかげがあったかという事になるのです。だからどうしても、お互いの信心が、只、おかげに浮いておる、お恵みに唯甘えておるという信心ではいけないと。それは初代が居られた時には、熱心に信心もしござった。おかげもよう頂きなはった。ところがあの先代が亡くなられた、初代が亡くなられた途端に、御ひれいが落ちるとか、信者がなくなってしまうのはです、私は水草のようなおかげを頂いとるからだと思うんです。
ですからどうでも一つ、ここでおかげを頂かなければならない事とです、私共の信心が子孫にも続きしかもそれが、年勝り代勝りに育って行き大きくなって行くおかげを頂く為にはです、お互いの信心が大地に根を下ろした様な信心、大地から吸収する所のものによって、いよいよ幹は太りいよいよ枝は栄え、いよいよ沢山の花が咲き沢山の実りが頂けると言う様に。いわゆる子孫繁昌家繁昌の大みかげを頂かして貰うと言う事。私は五つの願いでもです、一番私は重点をおかんならんのはそれだと思うですね。
そこだと思うです。体の丈夫も一生懸命願います。家庭に不和のなきが基と言う事も一生懸命願います。子孫繁昌、家繁昌もこれはね、只もう私の願いではなくて、子々孫々の為の願いなんです。子孫繁昌、家繁昌言うなら、それを願うただけではいけんその子々孫々に繋がっていくような信心とは、水草に浮いたような信心でいくら子孫繁昌、家繁昌を願っても駄目だと言う事ね。そうでしょう。
どんなに皆に五つの願いを繰り返し繰り返し願って、子孫繁昌家繁昌を願った所でです、水草のように、只お恵み水にに浮かされておるという、いわば信心ではそのお水が少なくなったり、無くなったら共に涸れなけれはならないと言う。例えばそういう実例が余りにも沢山あると言う事でございます。どうでしょうか金光教の信者が、そういうふうではなくて、大地に根を下ろしたような信心者が出来て、子々孫々、子孫繁昌、家繁昌のおかげを頂いとったら、もう今頃はもう大した事であろうと思うです。
教祖様は此方は一代仏を嫌うと仰る様に、もう本当に子供より孫の代にどういう風に繁昌して行く道こそが金光大神の道であるようにならねばならないのに、その金光大神の道を間違えて、只、おかげの道だけを体得しておるといったような事ではです、おかげにならん。 そういうおかげを頂かなければです、おかげを頂いておかげだけではね。昨日もある方が久しぶりに参って来た。大変おかげを何というでしょうかね。
素直な心の人ですからよくおかげを頂いたんです。この頃ちっとも参って来んからどうした言じゃろうかと思いよったところが、言わば不如意なことが次々起こって来る。それの第一家内が信心しよるけれども、拝みよるけれども、次々とこんな事が起こって来るので、神様もあまり当てにならんようなことを言う。それでも私は、そげな事はなか、信心の御無礼になっとるからとまあ言いましたけれども、自分もやっぱりそう思いよるという事を、そのお届けの中から感じたんです私。
ちょうど昨日は私が留守でございましたから、久富先生の所の霊祭でしたそれで居りませんでしたから、わざわざやっぱり私と会わなければ、なんか心許ない感じがするらしいのです。それで待って居った。そして御理解頂いておるうちにです、又何かこう甦って来たようにし、まあいっぺんそのような元気出して、昔の様な信心させてもろうておかげを頂いたらと言うて帰られました。いわゆるそのおかげに浮いている。
いわゆる只水に浮いておる水草のような、花であったり稔りであったりしとるおかげだからとそう言う事になるのです。自分の思うようにならん事が続くともう、不信、神様不信が生まれてくる。そこに恐るべし、これは大変な事だと思うんですけども、恐るべし疑いを去れよと。親先生が居られんごつになった。だからこれからおかげも頂けんごとなるだろうと 例えばもう既にもう疑いを起こしてる。その事が恐るべし本当におかげの受けられない事になって、信心までが絶えてしまったような結果になって来る。
お互いの信心が大地に根を下ろす、大地に根を下ろしたような信心とは、どういう信心かと。 私は本気でそこを考えさせてもろうて、いわゆるおかげにこだわらずに、いわゆる信心を頂く。その信心が育って行くというのでなからなければ、子孫繁昌、家繁昌にはならないと思うんです。お互い信心をさせて頂いて、いうなら、神を杖につけば楽じゃとおっしゃる。親先生を頼りにしておるというような信心では頼りない。親先生ござらんごとなったらどうなる。
御取次を下さる、生神金光大神を頼りに出けれる所まで、行かねば駄目である。成程金光大神、親先生の上に生神金光大神の働きがあっておることは間違いない確かである。だから親先生を信じておるというても、なら親先生が亡くなり二代となり、三代となってくると、もう親先生の時は有難かったけれども、二代の時、三代の時には、いや段々不信のものが生まれてくる。だから神を杖につけば楽じゃと仰る。その生神金光大神であり、天地神様の神様でありそれを自分の心にがっちり頂きとめる信心。
そこでそんならば、神を杖につけば楽じゃとおっしゃる。楽とはどういう内容を持ったものか、お金が沢山あるけん楽です 家庭が今円満じゃから楽です。成程楽です。けれどもなにか一寸波風が立つような問題が起こって来ると、その楽が崩れてくる。金がある間は、楽じゃったけれども、金が段々少なくなると、そんな家のあるのです。あそこは朝から晩るでこう笑いが絶えない。今給料をもらうて来らっしゃったばっかりだから、お金があるとあそこはいつでん仲が良か。
ところが段々月末が近づいて来ると、もうそれこそ阿修羅のようになる家の中が、うんかんかきがきかんちゅうから喧嘩さっしゃる。家族中がはあもうあの、月末で給料が段々金が少なくなんて来たばいのと、もう近所の者がわかる程はっきりしとる。だから金がある、まぁそれは極端な例ですけばも、金がある時は何とはなしに面白うおかしゅう生きられるけれどもです、金が段々少なくなって来ると淋しゅうなってくる。
いや少なくなって来るともう、お前の働きが悪いから、いやお前があんまり使う使い過ぎるからと言った様な事になって来る。だから金やら物やらそんなこっちゃない。楽というのは、例えば、それは病気をしておっても、貧乏はしておっても、神を杖につけば楽じゃと言う信心が、その内容というのは、まず私共が、我情我欲を放すと言う事。我情我欲を放す、まず本気での稽古をさせて頂くと言う事。そこから神様へ対するところの不動心が生まれて来る。
成程神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのであり、又は神様のおかげをです、頂けれる確信、それを不動心、不動の心と。動かない。それが私は楽の内容でなければならないと思う。不思議に自分の我情、例えばこれはもうすっきり我情我欲を取るという様なことは、いうような事はなかなか難しいけども、一つ一つ取って行く。何かの問題の時にです、もう先生、左の方へなったらと思いよりましたら、親先生が右と仰るから、右の方へ決めましたら、もう本当につきものが落ちたように心が楽になる。
それは親先生を段々信じてきたから、親先生のおっしゃるとおり、親先生任せになりゃおかげが頂けれるという楽な心です、自分の思いをその事だけでも取らせて頂けれは楽になる。いわゆる放我です、我を放すと言う事でさ、我情我欲を放れる。そこにわが身は神徳の中に生かされてある喜びが自ずと頂けてくるようになる。そこからいよいよ神様を信じて疑わない、いわゆる不動心も生まれてくる。どの様な事があっても驚かんですむ信心が生まれてくる。それが楽の内容である。
同時にそういう信心をさして頂いておりますとです、心に言うなら、いわゆる信心は悟りと言われているように、究極のところの悟りが開けてくる。これは一時二時で話せることではないですね。悟りの内容というものは、今までは難儀とばっかり思うておった。段々御理解を厚う頂かして頂いとる内にです、それは難儀ではない。それは神愛であった。神様の御心であった。
私に求められるところの修行であったと、分るのではなくて悟らせて頂いた時に、今まで難儀と感じておった事は、いわゆる苦しい悲しいの涙が歓喜の涙、随喜の涙と言う事になってくる。悟りと言う事はそんな素晴らしい働きをするものなしてくるもの。その悟りがひらけるそれが楽なんです。楽の内容とはそう言う事と言う事です。私は大地に根を下ろして行く信心とはです。
そういう本当の意味においての楽、本当の意味においての安心、本当の意味においての喜び、それが頂けれることのためにわが身は神徳の中に生かされて生きておるんだと。昨日甘木の初代のお弟子さんである先生が、新聞に忘れ得ぬ思い出という欄が毎日毎度載ってくるんですが、それん中であのうそれが親先生からいわれた一口の人言が今に忘れ得ぬ思い出だと。丁度学院に修行中の時分いに親先生が見えた。だから甘木関係のものだけで御挨拶に行った。
ところが丁度自分は、その頃足に何か腫れ物かなんか出来て座られなかった。そこで自分だけおって自分だけ残って親先生にそのことをお願いされた、そこんところだけを一寸読んでみましょうかね。「親先生、私は不注意から膝に出来物ができて、立たせて頂くのは、どうにか立たせて頂き歩かせて頂くのはどうにか歩かせて頂きますが、座る事がなかなか出来ませんので、休講して、(お話を聞くことを休んでいるということ)休講して自習室に休んでおります。
どうぞお願い申しして頂きとうございます。と申しあげると、親先生はじっと私の顔を見つめておられましたが、即座に「あんたが座るからさ、座らせて頂けば楽じゃが」おっしゃった。この言葉がもう今に忘れられない。そしてそれがそのおかげが私の原動力になって、もう私は本当に座る、こう自分でするのじゃない、させて頂くという事実をね、もう五体にしみこんどる甘木の先生の場合、自分ですると言う事はない。
させて頂くんだというその思い込みの出来ておる人の、その言葉の一言がです、それが忘れ得ぬこと言葉になっている。私はだん、自分でしよる、自分で座っている、自分が歩きよる、親先生の一言がです、自分で座るからくさ、座らせて頂けば楽だとおっしゃった。座らせて頂けば楽だと。自分で座る。もう金光教の信心のいうならば、おかげの要諦だと思うですね、これは。
参りよるとじゃない参らせて頂く。参ってやりよるごとある。御用して御用、御用と言いよるばってんしてやりよる。恩きせがましい、何とはなしに。それでは如何にさせて頂きよるとばっか口だけで言ったっちゃおかげにゃならんと言う事。そこにはさせて頂くことの有難さ、させて頂くことの楽喜びが必ず伴わなければならないと言う事。ならそういう信心をとても私共がいつ時、二時で分らせて頂く事はないけれども。
大地に根を下ろした様な所から、信心をさせて頂く所からそういう素晴らしい悟りもひらけてくると思うのです。そこから疑うにも、疑う余地のないほどしの信心が出来てくる。そして、いうならば、楽という本当の内容がです、我情我欲がある間は絶対に楽にはなれないのです。いわゆる、不動心も生まれてこないです。勿論、悟りもひらけてはこないです。そういう私共は、楽、本当の意味に於いての楽です。
本当の意味に於いての楽のおかげを頂かせて頂く事にならせて頂く事、そういうおかげを頂く為にです、水草が水に浮いている様な、いうなら信心では決して生まれません。そういうおかげは大地に根を下ろした様ないわゆる信心から、だからその大地に根を下ろしたような、信心の内容と言った様な事を、今日は少し聞いて頂いたわけです。そこから疑うに疑う余地のない神様を頂く事が出来る。いわゆる不動心が生まれてくる。神は声もなし形も見えず、疑えば限りなし。
恐るべし疑いを去れよと、成程神様は声も形もないのだけれどもです、ないからこそ却って神様を形があったら本当は信ぜられない、声があったら、例えば神様の一言というものは大変な広さ、深さを持っているというのですから、それをいわゆる声がないところに、どんなにでも頂けれる深さ広さが出来てるのですよ。実を言うたら。どうぞ限りなく神様を信じていけれるおかげを頂く為にも、今日は申しました様な所をですよ、大地に根を下ろしたような信心をさせて頂く。
果して私共の信心がどう言う所、只おかげに浮いておる水草のような信心でなかろうか、これでは水が減ったら途端に少なくなる。いや涸れてしまうと言う様な結果になってくる。それではいよいよ、子孫繁昌、家繁昌になろうはずすがありませんよね。いよいよ子孫繁昌、家繁昌のおかげを頂く為にも、一つ今日の御理解をもういっぺん頂きなおしてしっかり大地に根をおろしたような、信心をして頂きたいと思いますね。
どうぞ。